自身の信仰を振り返って      

                          K.I.

 

今年、塚口教会に転入会させていただき、新たな信仰生活を歩ませて頂いております。

遠い昔のことになりますが、中学生の頃、それ程親しくなかった同級生にしつこく誘われ、仕方なく行ったのが、教会へ行くきっかけでした。あれから60余年。なぜこんなにも長く、教会へ行き続けられたのか、自分でも不思議に思っています。当時は教会に来る青年も多くいました。仲間と共に新たな青年会を立ち上げたり、関西圏の他教会の青年会との交流、地域とスポーツを通しての交流と、まるでクラブ活動のような教会生活を送っていました。社会人になっても礼拝、夕拝、祈祷会とそれなりに教会生活は続けていました。友達がいたことが続けられた要因の一つになったのは間違いないように思います。

しかし長い期間教会生活を送っていたとは言え、本当に信仰について、贖罪について真剣に考えていたのかということに付いては疑問と言わざるを得ません。勿論、聖書の教えについて、理解できないことは聖書研究会で質問したり、自分の考えを話し合ったり、議論することは幾度もありました。しかし自分自身に向かって、真剣に問いかけてきたのかと言えば、やはり疑問と言わざるを得ません。聖書の指し示すことに対して、自分に照らし合わせて真剣に読んでいたとは言えない、と言う問題が大きく膨らんで来ました。

その思いに至ったことから、会社生活を終えたのを機に、神学校の聴講生としての学び、信徒伝道者養成講座で学んだりもしました。また他教会の聖会にも足繁く出席したりもしました。

当たり前のように教会生活を送ることと、自分の信仰と向き合うことは異なるもの。己のいい加減な信仰を突きつけられる思いをさせられることになりました。そしてさらに、ともすれば神から離れようとしている自分の本質を見せつけられる思いがしました。「信仰は自分との戦いである。」と言われたある牧師の言葉が心から離れません。信仰は自分の弱さとの一生の戦いだなと感じています。

本来、当たり前のことは、意識することなく自然に受け入れているものであり、あえて信じると言う言葉は発しません。空気を吸う事は無意識にしていることであり、空気があることを疑いません。空気があることを信じていますと意識して呼吸をしている訳ではありません。人は当たり前のことは意識することなく自然に行っています。信じ求めている中に、信じ切れていない自分を見る。そこに自分の弱さを見るからこそ、むしろ神の存在を意識して求めることが出来るのではないか。

神は自らの姿に似せて人を造られたが、神に劣る者としてつくられた。人が自らの意志を持って造り主である神を受け入れ、悔い改め、崇め、従うことを求めておられる。そのことを受け入れるには、神に造られた者として、神に従わない心を心底に持っている者であることの自覚が必要だと感じています。

そして、神から離れようとする欠けたる者としての自覚を持ち続けるためには、たとえわずかな時でも、一人で神と対話する時、デボーションが大切だと思っています。イエスは「祈りは密室で祈るように」と諭されました。わずかな時間でも、自分を見つめ、御声を聞く時間を持ち続けたいと願っています。