試練と恵みに R.M.
2021年3月7日迄の私は、「病気入院!? ホームへ入居!? まあ、関係ないでしょ」と豪語していたのでしたが、何とこの日、気が付けば、突如敗血症を発病し、救急車で病院へ運ばれていたのです。幸いコロナ禍のさ中にも適切な治療を受け奇跡的とも云える速さと快復力を得て退院出来ました。
しかしこの日から私の歩む道は、私にことわりなく、180度変っていったのです。退院して我が家へ落ちついたというのに予期せぬ体力の減退に心底より一人で暮らす自信を失い、眠れぬ夜が続きました。
主治医先生ご家族ぐるみでお世話の末、神経内科の病院に再入院、ここでも又、適切な治療と新しい交わりの輪もでき退院、やっと我を取り戻すことができました。
しかし次なる展開は、まるで見えざるものに引かれるように、教会友人のお世話でホームへの入居が決っていったのです。入居に当たり、長年の生活での愛するすべてを処分し、ガラリと変わる行く末に、私は神の試練のさ中にいる自己を認識せざるを得ず、傲慢、自己中心的思い込みの罪の意識に打ち砕かれ、正に今、私に必要な神からのこの試練を粛然と身に受けようと思いました。
ホームへ入居しました。すべての方々が優しく親切に受け入れて下さいました。環境も私に適切でした。私は悔い砕かれた思いで、神を見上げ、隣人愛、謙虚な心、感謝、寛容の思いをモットーにすごせるようにと日々祈りました。
しかし、やはり人の集まる場の常か、思いがけない出来事が起こり、この試練にも私は、この上なく傷つきました。そしてモットーにしていた「寛容」を思い出したのです。
真の寛容とは無条件にすべてを許すことなのだろうか、と悩み考え、若い友人の意見にも耳を傾けました。そして真の寛容とは、単にAがBに対して鷹揚な心を持つ事ではない、また譲歩したり、甘やかしたりすることでもなく、人として対等な立場で対話することを通して示されねばならないと思い至りました。
上から目線で許すことが寛容と捉えていた傲慢を、神と人が私に気付かせて下さったのです。
そして今や、ここホームで、一段と理解し合えた人間関係を取り戻しつつあると思える事に、神の見えざるお導きがこのように組み込まれ、この試練をも解決に導いて下さった恵みを深く心に温めている私です。
教会は神のみ体、福音に満たされた塚口教会に、長年つながらせて頂いている幸いを改めて感謝しています。
自己以外はすべて隣り人、自己と同じように他を思いやる想像力、洞察力をもって交わるならそこには豊かな愛と寛容が生まれ、真の隣り人同志となれるのでは、と切に願う日々となりました。
さんびか 505
3.悟らせてください 4.歩ませてください
たじろぐことなく み後に従がい
不正に打ちかつ 希望に輝く
信仰の道を 平和への道を