『神から勇気を頂く民』村岡博史牧師
マタイによる福音書10章16-25節/使徒言行録20章25-32節
教会とは信徒の集まりのことで、「キリストのからだ」と呼ばれます。この2千年間ほど、神の子キリストは、教会をご自身のからだとして用いて、何をしてこられたのでしょうか?「御国の福音」(マタイ9:35)を伝えてこられました。続くマタイ10:7でも主イエスは繰り返されています。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と言われた。その意味は、神が私たちをご自分の羊とすること=神ご自身が私たちの飼い主となられることです。迷子になって怯えている羊を探して、神ご自身の群れに連れてかえり、群れの中で安心して暮らす羊にしてくださいました。父なる神は、創造主であり、永遠に生きておられ、愛なる方ですから心強い。神は、地上世界のあちらこちらに迷える羊をたくさん見つけておられます。その羊たちを実際に探して導く働き手を世の人々から召し出されます。そのために主イエスは、現代にいたるまで、働き手を次々と召し、教会に連ならせ、働き手として育てて世界中に派遣し、「御国の福音」を伝えられました。
今日の福音書の聖句では、「御国の福音」を宣べ伝えるために派遣される働き手たちへの覚悟を教えます。16節で主イエスは言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。」(マタイ10:16) これには主イエスの強い意志が現れていて、主イエスが派遣の責任者であることを示します。ただし、主の方法は、世の方法とは全く違います。「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(10:16) では、弟子たちは最初から「羊」のように「穏やかな」人たちだったのでしょうか?弟子たちの多くは元漁師です。中には「雷の子ら」(マルコ3:17)と呼ばれる激しい気性の弟子もいれば、「岩」と呼ばれた弟子(ヨハネ1:42)もいた。漁師はひ弱でしょうか?いいえ、力自慢たち!弟子のマタイは、当時、嫌われ者の元徴税人。当時、税金を取り立てる役人が愚かなはずがありません。駆け引きや狡さにかけては誰にも負けなかったはずです。そんな弟子たちを主イエスはどうされたましか?御言葉(説教)によって、徐々に心の「武装」を解除されました(実際、彼らが武装していた訳ではもちろんありません)。弟子たちが心に隠し持っていた豹の牙や爪のような攻撃心、サソリの毒のような心を抜き取られました。御言葉(説教)によって、彼らの心を「羊」に変えていったのです。まず、主イエスは「山上の説教」において、「報復の禁止」(5:39)を語り、「愛敵の教え」(5:44)を語られました。10章10節では、敵の攻撃から自分を守る「防御手段(杖)の断念」(10:10)および敵への「平和の挨拶」(10:12-13)も語られました。これらの御言葉(説教)を通して、主イエスは弟子たちを「神の羊」に変えていきました。心に隠していた「武器」を取り外させ、「仕返し」を断念させ、敵を愛する心を弟子たちに植え付けていきました。その結果、今日の16節の段階で、弟子たちは既に「神の羊」に変えられていました。主イエスから見て、まさに「羊を送り込むようなものだ。」と言える位に仕上がっていたのです。ですから、御言葉(説教)の目標の一つは、皆さんの心に隠されている「牙」や「毒」を抜き取り、仕返しを放棄させる心を養い、神の羊に創り変えることでもあります。
では、主イエスの弟子たちが派遣される先は、どんな場所でしょうか?「狼の群れ」(10:16)のただ中です。「狼」は容赦なく獲物の血を求めます(それも集団で)。ここで「狼」とは何を指しているのでしょうか?…宗教改革者カルヴァンは次のように教えています。「狼」とは、「神のあわれみの聖霊によって全く再生されない者たち」「牧者の声を聞いて、和らぐどころか、逆にさらに大きな残忍さで興奮している怒り狂った福音の敵である者たち」(※)ここで疑問が生じます。なぜ、神は「福音の敵」のような存在を造られたのでしょうか?神は「全能」の創造者ですから、ご自身の力で一気に御心に従順な人に創りかえれば良いではないですか?…この疑問に、カルヴァンは驚くべきことを語りました。「主が大部分の人々を、福音に従順に服従させないで、彼らの野蛮で、残忍な本性のままにしておかれるとき、主は彼の奉仕者たちを鍛えるため、全く故意に、そうしておられるのである。」(※)・・・なぜなら、主なる神は全能者ゆえに、御心ならば、「狼」たちの獰猛さを和らげることができるからです。つまり、皆さんの中で、身近な人々が全く福音に関心がないと愚痴る方、教会に反発さえしている、と嘆く方。それはすなわち、キリスト者としてのあなたを鍛えるためなのです。・・・神がその心を頑なにされるなら、愛する家族や親友ですら「福音の敵」「神の敵」になります。周りの人が教会に理解がない人ばかりなら、それは、あなたを鍛えるために、神が周りの人を「狼」のままにされているのです。私たちが<蛇のように賢く、鳩のように素直な神の羊>に成長させるために、神はあえて、周りを「狼の群れ」のままにして、その真只中に「神の羊」を遣わすことがあります。時々、21節と22節が実現されてしまいます。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」ここで、「死に追いやる」のは「狼」であり、死に追いやられるのは「神の羊」。「神の羊」たちは、教会の歴史の中で、度々そのような目に遭ってきました。実際に殺されるわけではなくても、人々の心の中で殺されてきました。でも、キリスト御自身が模範を示されました。徹底的に仕返しを放棄し、むしろ、ご自分を十字架に付けた者たちが救われるために、祈られました。
私たちの礼拝にはインドネシアからの友がおられます。インドネシアは世界最大のイスラム国家ですが、実は、キリスト者もたくさんおられます。そのインドネシアのスラウェシ州で今年5月(11日)、4名の中高年のキリスト教徒が、イスラム国と関係するとされるテロ組織に襲われ、殺されました。痛ましい出来事です。犠牲者たちの霊を神は受け入れ、憩わせてくださっていると祈ります。神は、どうしてそのようなことを許されるのでしょうか?この問いに対して、先ほどのカルヴァンの解釈に立つならば、犠牲者の周りのキリスト者の信仰を鍛えるため、といえるかもしれません。主イエスは、徹底して仕返し(報復)を否定されました。「敵を愛しなさい」と言われた。この度の悲しい事件を通して、神は、インドネシアのキリスト者たちに、同じ国民であるテロリストたちを許すという宿題を与えられたのかもしれません。
日本の人びとも教会と福音に牙をむくことがあります。76年前に終わった戦争は、この国の庶民を「狼の群れ」に変えました。多くのキリスト者が「非国民」と呼ばれていじめられました。キリスト者であることを捨てたり、隠しました。戦争中、朝鮮半島の朝鮮人キリスト者は、神社参拝を拒否したために、たくさん殺されました。日本人キリスト者でも「ホーリネス」系教会の方々が犠牲になられました。先の大戦中、キリスト者がしばしば「非国民」と呼ばれたのはなぜでしょうか?教会の頭であるキリストご自身が、元々この国の人々から「非国民」扱いされていたからではないでしょうか?…今日のマタイ25節「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」と主イエスは預言されました。主イエスは当時、「悪霊の頭ベルゼブル」と言われた(マタイ12:22-27)。だから、主の弟子たちも<悪霊の仲間>と言われて、同胞のユダヤ教徒からいじめられました。地上世界において、偶像である存在は、自分の地位を脅かす真の「神の子」に反逆するのです。時々、血に飢えた「狼」のように、「神の羊」たちに、隠していた「牙」をむくことを歴史は語っています。
当教会が2019年度に策定した2020年度からの3年間の「中期伝道計画」をご存じでしょうか?3年間の目標は、「家族・知人を誘える教会になる」です。では、どうしたら家族・知人を誘える教会になると思いますか?方法はある意味簡単です。牧師が、説教で福音を語らなければ良いのです。誘いやすい教会になります。なぜなら、お誘いする対象のご家族やご友人は、しばしば心の内は、福音に牙をむく「狼」のままであるからです。ならば、福音を「骨抜き」にした「ありがたい感話」を語り続けたならば、「牙」をむかなくなります。牧師が「罪と十字架の贖い」を語らなければよいのです。「キリストの再臨」や「神の裁き」を語らなければ良いのです。「復活」や「永遠の命」を語らなければ良いのです。キリストが神の独り子であることを隠して、釈迦のような、偉大な宗教者の一人であるかのように、語れば良いのです。牧師が、キリストの福音を骨抜きにして、毎回ためになる楽しい閑話を聞かせてくれるなら、ただちに「誘いやすい教会」にはなるでしょう。
さて、敬愛なる信徒の皆さんの多くは、すでに今日のマタイ16節を実践してこられたのではないでしょうか?教会では御言葉と福音に素直に耳を傾け、程度の差はあるが、「神の羊」として整えられてきました。時をつかんで、家族や知人を教会に誘ったり、聖書のお話をしてこられました。一方、教会の玄関から一歩出ると、「賢い蛇」のように振る舞ってこられました。「ずる賢い」という意味ではありません。しばしば、賢明にも自分が「神の羊」であることを隠してこられました。なぜなら、遣わされた先で「御国の福音」に反逆する「狼」たちに囲まれていると知っていたからです。その中でキリスト者である自分は、主イエスによって仕返しを禁じられた、無力な「神の羊」であることを理解しておられるからです。
17節で主イエスは「人々を警戒しなさい。」と言われました。究極に警戒する方法を我々はこの一年半で学びました。「ステイホーム」することです。誰にも会わないようにすることです。では、主イエスは「ステイホームしなさい。」と仰ったのでしょうか?そうではありません。主イエスは「御国の福音を伝えなさい。」と言われているからです。…「鳩のように素直になりなさい。」とは、「神の羊」として、「御国の福音」を伝えることに素直に励みなさいということです。そして、御言葉(説教)を通して、仕返しを禁じられ、「神の羊」に整えられた神の民を、神はあえて「狼の群れ」に遣わされるのです。<蛇のように賢くあれ>とは、「神の羊よ、<狼>の群れの中で無駄死にするなかれ」という主イエスの願いでもあるように思えます。
では、キリスト教人口1パーセントにもないこの国で、我々はどう折り合いをつけていけばよいのでしょうか?…まず、「神の羊」である自分の価値に気づくことです。私という存在は、神から見てどれほど高価な存在であるかに気づくことです。まず、自分という「苗床」に深く・広く福音の根が張ることを目指すのです。かつて、石ばかりの堅いやせた土であった私を、神の霊である聖霊が、長い時間をかけて柔らかい肥えた土に変えて下さいました。聖霊が、茨のせいでやせた土地のような私の心から、茨を取り除かれました。神が年月をかけて、心を込めて耕されて、整えられた私たちなのです!礼拝ごとに御言葉が蒔かれ、神が水と肥料を与え、表には芽が出て、陰には深く広く、信仰の根が伸びてきました。神から見て、私たちは喜びなのです。その自分の価値に気づくこと。御言葉の苗を豊かに宿している土地のような私たち。だから、「狼の群れ」の中で無駄死にしてはいけません。神の喜びを奪うことになるからです。私たちは神のものだからです。「狼の群れ」に囲まれていると感じたら、息を殺して必要があります。時には、その場を去る必要もあります。一方、時をつかんだなら、素直な鳩のように、大胆に伝道するのです。私たちに欠けているのは、ちょっとした勇気と神への信頼です。聖霊なる神がその時を教え、整え、勇気を与えてくださいます。今日の使徒言行録のパウロは、聖霊から勇気を与えられた。彼こそ、「狼の群れ」の中で賢明にも隠れもしたのです。でも、時を得たならば、「素直な鳩」のように、エフェソや各地で大胆に伝道しました。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)そう語ったのは伝道者パウロでした。私も福音を恥としません。ですから、「罪」も「赦し」も「十字架の贖い」も「神の子の復活」も「永遠の命」も語り続けます。なぜなら、御言葉を蒔く説教者の前には、長い年月をかけて主なる神が心を込めて手入れされた土である皆さんがおられるからです。これからも福音をストレートに語り続けることで、ある意味で<家族・知人を誘いにくい教会>であり続けたいと願います。なぜなら、そのことによってのみ、塚口教会が「神の羊」たちを豊かに養う<神のまきば>となるからです。聖書の御言葉は、「あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒言行録20:32)
(※)「カルヴァン 新約聖書註解Ⅰ共観福音書上」新教出版社、1984、350頁