「おもちゃばこ」

                                  K.H.

 

「神さまはね、おおきなおもちゃ箱を持っているんだよ」

その方は、ゆっくりと子どもたちに語りかけてくださった。

今はご高齢になられて、教会にいらっしゃることがなくなったTさん、

Tさんとのお話はいつも楽しく、礼拝でお見かけした時はいつも駆け寄ってお声をかけていた。

何度か教会学校の礼拝でもお話しをしていただいた。

「いろんな物を集める人がいるけどね。石を集めるようになったらおしまいだよ」

「へぇ、そうなんですか」

そんな話をした後の日曜日、教会に向かって歩いているTさんを見かけた。横断歩道で止まられると、地面にかがんで何かを拾われた。

手にされたのは、鳥の羽だった。しばらく眺められると、ポケットに入れて歩かれた。

石と鳥の羽、何が違うのか???ご本人にお尋ねする機会を逃したままだが、誰から何を言われようと好きなものは好き。それで良いのかもしれない。

禅語に「遊戯三昧(ゆげざんまい)」ということばがある。浄土真宗乗善寺のホームページを見ると、

『日常生活に関わることすべてを遊びのように徹してやろうということです。何かにとらわれることなく、遊ぶことも遊び、働くことも遊び、どんなことも遊びとして受け入れるのです。このように悟った人には遊びと仕事の区別がありません。』とある。

わたしは今、週4日、午後から幼稚園で働いている。そこには、目の前のすべてのことを全力で遊ぶ小さい人たちがいる。中断されると「いやだぁ、まだやりたい」と泣き叫ぶ。「明日また続きをやったらいいよ。」が通用しない。まるで「今日が最後の日」のように取り組む姿に、かなわないなと思う。

神さまが与えてくださった今日という日、良いことも苦しいことも遊びとして受け入れ、全力で取り組むことができたらと思う。それができなくても、神さまのおおきなおもちゃ箱の中に入っていると思うと、なんだか自分が楽しい人に思えてきた。