信じる事
M.U.
ある本を読んで昔悩んでいたことを思い出しました。
その昔、1970年代後半の頃、エクソシストやオーメンなど悪魔や悪霊を題材とした洋画が流行り、それらが身近なものとなったころに、「悪魔の存在を信じるか?」との問いにどう答えるべきかを自問自答した黒歴史があるのです。
当時すでに信仰告白を済ませており、神を信じる事には(理系なので)多少の抵抗がありながらも肯定の立場でしたが、一方で悪魔の存在を信じるかの問いに対しては余りにも異世界(本や映画の世界)の出来事のように感じられ、肯定出来なかったのです。そのことが神を信じていないことの証左のように感じられ、結局悪魔(の存在)を信じられない自分は神を信じていないのではないかと悩んでいた時期があったからです。この時の気持ちは神と悪魔は表裏一体であり、片方(悪魔)を信じられないなら、反面(神)をも信じられないのではないかというものでした。そして、これを思い出したのが、冒頭の本です。
この本は使徒信条について書かれており、最初に「われは信ず」という文言を解説しておりました。曰く使徒信条は聖書の内容、すなわち何を信じるかの手引であり、教会が示す信仰の内容に対して、あなたはこれを信じるかとの問いかけへの回答が「われは信ず」であると。さらに『こういう信仰の内容をおぼえる事ではなく、この信仰の内容を自分のものにして、それによってキリストに救われることである。信仰はイエス・キリストを信じる事であり、信じて救われることである。そうならないなら信仰についてどんなに知っていても、意味がない。』ともありました。(斜体は私による強調箇所)
信じることと救われることが表裏一体であり、救いがなければ信仰が成り立たないとも読める一文は過去の表裏一体論の悪夢を思い起こさせます。両親に連れられて小さいころから教会学校に通っていた私にとって、神様を信じることは当たり前のことで、ことさら救いを求めて教会に行くのではなく、教会は普通に日曜日に行く場所であったからです。(もちろん高校や大学のころに教会に行く頻度は下がりましたが、それでも日曜は休日ではなく、教会に行く日との認識でした。)ですから「何となく教会に行っているおまえの信仰は、救いを求めているのではなく、何となく信じているであり、本当の信仰とは言えないぞ」と信仰の根本から間違っていると宣言されているように感じるのです。
一方でこれまでの半生を振り返ると、普通の家庭で育ち、両親にも恵まれて教会に通い、受験は失敗しましたが一浪で普通に大学に通え、公務員試験は不採用でも滑り込みで企業に就職して今年の定年延長満期まで働けたこと。妻の叔母の紹介で結婚し、子供も2人授かって共に成人しており、何の苦労もしていないなあと感じます。さらに妻も両親に連れられて教会学校に行くのが当たりまえでお互いクリスチャン家庭で育った結果、日曜に教会に行くことはもちろんの事、冠婚葬祭でもめることもありません。(妻がどう思っているかは分かりませんが…)
普通に生きて、当たり前に神を信仰できることは本当に恵まれていると思います。私が将来苦境に立たされたとき、甘ちゃんの自分が信仰を持ち続けることができるのか、自信がありません。しかしながら今与えられた恵みに感謝しつつ、甘ちゃんは甘ちゃんなりに信仰の道を歩み続けられればいいなと思っています。