祈ることの少ない私

        H..

〝いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい〟

テサロニケ51617

 祈りには人前で祈る「公の祈り」と一人になって祈る「独りの祈り」があります。

色々なお役をしていると、会を始める時に、会を終わる時に、代表して祈ることが多くなります。私にとって試練の時間です。

私が学生時代の長老たちは、メモも見ず長文の欠ける事のない祈りを捧げておられました。私に同じことは出来ません。覚えられないし、メモを見ずに祈りの言葉が浮かびません。放送事故かと思われるような沈黙の時間が過ぎていく事は出来るだけ避けたいので、事前にメモを書き、読み上げる事にしています。結果、定型の祈りになってしまいます。それでよいのかと恥ずかしく思うことがあります。定型の祈りなのに、漏れること、欠けることの多い祈りにまた恥ずかしくなります。祈りの時も自分がどう見られるかを考えている自分に気づき、余計に祈れなくなります。

最後は御霊の力に頼り、声を出し始めます。自己中心の思いしかないこの私に、神に祈る時を与えて下さる主イエスに感謝し、全て委ねて祈ります。そうすると、言葉少なく欠けている一人の祈りも、集まった他人の祈りと合わせて一つの祈りになる事を教えられ、慰められ、人前での祈りを果たすことが出来るのです。

「公の祈り」の中で懺悔しているとおり、祈ることの少ない私です。子どもの時、寝る前に仏壇の前に座りリンを鳴らしたように、「独りの祈り」が生活の中で顔を洗い、歯を磨くのように定型化することを願いましたが出来ていません。

それでも、朝目覚めた時、夜寝る前に、神に祈る時が与えられることもあります。深いため息とともに神さまに、不満、不安、疲れ、いろいろな事を訴える祈りです。そのほとんどが「しんどいです神さま!」「上手くいきません神さま!」で始まります。「人に言えば愚痴になるが神に言えば祈りになる」と信じています。

それでも神さまに訴えている内に、健康と力を願い、すべて良い方向へと導いてくださるようにとの祈りにまとまっていきます。すべての結果に神の導きがあると信じます。その道が試練であればそれを乗り越える力を求める祈りでもあります。

祈ることの少ない私ですから、他人のことを祈ることも少ないです。子どもの時祖母が仏壇の前で4人の娘家族全員19名の名前を一人一人あげて「守ってください」と祈る姿を観ました。まずは家族に神さまからの見守りがあるようにと祈ることを始めようと思っています。

礼拝の祈りでも、祈祷会や研修会での祈りでも他人が私のことを祈っておられるのが分かります。周りの人の祈りによって私が守られていることを信じます。家族の次はつながり、交わりのある人の事を祈りたいと思います。

 

身近な家族を教会に導けていない私は、「祈ることが少ない」のではなく「祈りが足らない」と言われても仕方がないのです。それだけに「断えず祈る」人になりたいと願います。