聖なる公同の教会
Y. K.
私が教会に通い始めたのは、0歳の時。もちろん自分自身の意思で通い始めた訳ではありませんが、全て神様によって備えられ導かれて今もこうして教会に繋がらせていただいていることに心から感謝をしています。
学校も就職先もずっと阪神間で過ごしていた私にとっては教会=塚口教会でした。ところが思いがけずに縁があって、愛知県の職場に勤めることになり、50歳を過ぎて初めて単身赴任として一人暮らしを経験することになりました。週末も仕事がある時があり、日曜日に西宮の自宅に戻れないこともあります。そこで、そのような日に礼拝を守るために、単身赴任先の住まいから近いところに教会はあるだろうかと、ドキドキしながらインターネットで検索をしてみました。どの様な会堂なのだろうか、どのような牧師の先生がいらっしゃるのだろうかと想像を膨らませながらあれこれとそれぞれの教会のHPを訪ねるネット上の旅をしばらく続けていました。
その中で、塚口教会の礼拝堂と雰囲気がどことなく似ているある教会に目がとまり、次の日曜日に思い切って礼拝に出席してみることにしました。
朝からなぜか緊張しながら、でも少し楽しみにその教会を訪ねさせていただきました。受付の様子も違い、聖書や讃美歌をおいている棚のしつらえも当然ですが違います。そのほか、聖餐式の手順も、献金の方法も塚口教会とは異なり、私が一番驚いたのは、使徒信条を告白する際に、オルガン演奏がなかったということでした。
自分がもの心ついた頃から通っている塚口教会が教会そのものであった私にとって、教会ごとに礼拝の守り方が違うということは新鮮な発見でもありました。
そして何より私が嬉しかったのは、聖書を読み、御言葉を聞き、讃美の声を合わせる方々が集い、神様を信じる心が共に合わさる空間がそこに広がっていたということです。日常の生活とは違う特別な時間、特別な空気が流れる空間は、違う土地の違う礼拝の手順であったとしても、そこにおられる方が初めて出会う方々であったとしても同じ信仰で繋がっているという安心を感じることができました。
実は、私は恥ずかしいことですが子どもの頃に音で覚えたまま使徒信条を言葉としていつも告白していました。聖なる公同の教会の公同を「講堂」と長い間思い違えていたのです。教会の皆が集まる礼拝堂は、聖なる場所、素敵な場所だという意味だと思っていました。
しかし地域を超えて、細かな違いを超えて普遍的に神様を信じて集まり礼拝を守る教会があるという幸いとしての「公同」の意味を、こうした経験を通して改めて知ることができたことは感謝でした。
それでもやはり塚口教会に出席すると、HOMEに帰ってきたという安心感を感じることができます。見慣れた礼拝堂、幼い頃よりともに育ってきた兄弟姉妹、使徒信条とともに美しく響くパイプオルガンの音。それは私にとっての大切な聖徒の交わりであり、私にとっての固有の教会の意味ともなっています。日曜日の朝、全世界でともに守られる普遍的な意味を持つ教会と、大切な人たちとの交わりによって支えられる私にとっての固有の意味を持つ教会。この両方に神様がともにいてくださることを覚え、これからも教会に連なるものとさせていただきたいと祈っています。