賛美歌と私

                                         K.K.

 

私は満州鞍山市で生まれ、小学1年の時に本籍地北海道旭川市に引き上げました。

寒い吹雪を経験した後、小学2年の時に尼崎市に引っ越してきました。小学6年の時、中学受験するために関西学院に見学に行った時、正門前の甲山をバックに時計台がある景色を見てこの学校に入りたいと思いました。幸いにも入学出来ました。

賛美歌(左開き)、文語体の聖書、ローマ字しか読めないのに英語の賛美歌を購入させられました。中学部の卒業アルバムに、当時の中学部長の送る言葉として 賛美歌の歌詞「ささやかなるしずくすら ながれゆけば うみとなる」が掲載されていました。

これは、関西学院の校章が三日月なので、満月に向かって成長して行くようにとの願いだと思います。この歌が、先日4月東京の聖ヶ丘教会の礼拝を視聴したときに

礼拝の奏唄として歌われたのを聞いて懐かしく思いました。

大学卒業後は、日曜日が休みでない小売業に勤めたため、教会に行くということは全く考えていませんでした。 10年後に飲食店を引き受けました。これも日曜日が休みがなくしかも年末ぎりぎりまで営業していました。これを63才の時に閉店しました。

その後5年間、豊中市のシルバー人材センターの仕事をしました。このとき初めて年末の休みを経験し、日本基督教団の豊中教会の年末礼拝に行きました。讃美歌が、

讃美歌21に変わっていることを知りました。この当時は豊中市に住んでいて、豊中教会までは歩いて15分位でいけました。礼拝後はすぐに求道者会があり牧師といろいろ話させていただきました。聖餐式は全員参加でした。高等部時代、松木牧師の時に塚口教会に参加していたのを思い出して、塚口教会にも参加しました。

グリークラブでの楽譜は、当時現在のようなコピー器械が無かったので、蠟をひいた原紙に鉄筆で音符を書いて原稿を作り謄写版で印刷していました。Ⅰ枚の原稿を作成するのに2時間以上かかっていたと思います。曲目は宗教曲、ラテン語ミサ、KYRIE(主よ)、GLORIA(栄光)、CREDO(信じる)、SANCTUS(神聖である)、AGNUS DEI(神の子羊)、DOMINE SALVUM(話し上手)、PIE JEUS(慈悲深いイエス)、ヘンデルのメサイア(救世主)、黒人霊歌、讃美歌のクリスマスの唄 他日本の組曲、全日本合唱コンクールの課題曲、自由曲等、1年中次から次へと練習して演奏していました。 

中学部、高等部の時は毎日礼拝があり讃美歌と接する機会がありましたが、大学時代は礼拝出席の義務は1年の時だけで毎日では無かった。ただ10年間グリークラブ所属し、讃美歌他いろんな宗教曲に接しておかげで、40年間離れていても、童謡と同じように讃美歌のメロディ忘れていない。讃美歌は音楽としてすばらしい。讃美歌を歌うということは、その基になる聖書を学び歌うといわれています。定期入れに入る大きさの冊子で主な26曲の歌詞の讃美歌を持っています。これは歌詞を見るだけでメロディが出てきます。前の改革派伊丹教会では コラールとジュネーブ詩編歌を頌栄していました。

今身体の状態は、良くないですが、讃美歌のメロディを楽しみながら、信仰生活を護りたいと思います。