『神のものは神に』 村岡博史牧師
マタイによる福音書22章15-22節
キリスト教や聖書(の世界観)を全く知らずに生きて来た人は、この世が全てと思う傾向があると思います。そういう方々の多くは、一度きりの人生を全うするために、世界中の様々な行政・司法制度や仕組みに守られつつも、それらを巧みに利用しなければならない、と考えておられるのではないでしょうか。しかし、やがてこの世を離れる時がまいります。その時、それまで必死にしがみついて頼ってきた、社会的な制度や仕組みも、引き続き自分の来世を保証してくれるでしょうか?行政が来世までサポートしてくれますか?敬愛する召天者の皆さんは、なおこの国の行政や司法の恩恵を受けていますか?国民としての権利を行使しておられますか?召天者の聖徒の皆さんは、その意味で、私たちとは全く別の世界に移されました。今は、愛なる神の元に憩われています。全ての義務と権利から解き放たれています。イエスさまは、父なる神の独り子です。「神の国」からこの世に遣わされた神の子です。地上の世界だけがイエスさまの全てではありません。「神の国」が来ることを教えられました。ですから、イエスさまの言葉と行いから、我々は「神の国」を憧れることや、地上の世界とどんな距離感でいるべきかを教えられます。
今日の場面は、イエスさまとファリサイ派の使者たちとの対話の場面です。ファリサイ派というのは、旧約聖書にたくさん記されている掟をしっかり守って、自力で救われようと心がけて来た人々です。救われるか否かは自分次第という価値観で生きて来た人々です。「自己責任論」に立っている人々は、宗教は違っていても、ファリサイ派の友人です。ファリサイ派とイエスさまたちが暮らしていた当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。その一番のボスが皇帝です。皇帝は、帝国を保つためにできるだけ公平に、もれなく税金を集める必要がありました。イエスさまが子どもの頃までに、ローマ帝国はイスラエルの人口調査を行って、税金をローマのお金で治めさせることにしました。
当時の税金には直接税と間接税の2つがありました。間接税(テロス)は、おもに消費税や関税などです。直接税(ケーンソス/フォロス)にはおもに人頭税と地租(年貢)がありました。人頭税の対象には子どもと老人は入れられませんでした。それらの税金をローマのお金で支払う必要がありました。人頭税は年額で1デナリオン。それは平均的労働者の一日分の労賃と言われています。ちなみに、1デナリオン銀貨の表と裏には、ローマ皇帝の顔と名前が刻まれていました。特に、皇帝の称号として「神の子」が使われていました。それらの貨幣は、ギリシャの神々のモチーフで造られ、ある通貨には皇帝の母が「大祭司」とさえ刻まれていました。旧約聖書の十戒を頂いたイスラエルにとって、たとえ皇帝といえども、人間を神としてはなりませんでした。「いかなる像も造ってはらならい。」(出エジプト20:4)という十戒の第一と第二の教えを重んじて来ました。生真面目な信仰者ほど、ローマの通貨を使うことを拒みました。商売人でもあったファリサイ派は、仕事上はやむを得ずローマ通貨を用いながらも、人頭税をローマ通貨で支払うことには抵抗しました。ファリサイ派に属する徴税人は存在しませんでした。使徒言行録5章37節がそれらの雰囲気を語ります。イエスさまの故郷のガリラヤ地方にユダという男がいました。ユダは、人頭税を目的とするローマ帝国の人口調査に反対して、暴動を起こしましたが、鎮圧されてしまいました。この暴動を支持した人々は、偶像礼拝したくないという宗教的な理由による支持者たちであったと考えられます。申命記17章15節によると、「同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。」とあります。当時のユダヤ教ファリサイ派の人々にとって、毎年デナリオン銀貨を用いて人頭税という直接税を支払うことは、信仰上の侮辱と感じられました。ですから、これらの銀貨がエルサレム神殿にささげられることを防ぐという理由もあり、神殿には両替商が必要とされました。
一方、当時のイスラエルの王として、ローマ帝国から支配を委託されていたのがヘロデ王家とその支持者たちでした。ヘロデ派から見ると、国民がローマ帝国に税金を納めることは当然なされるべきことでした。つまり、ヘロデ派の人々とファリサイ派は、納税について敵対関係にありました。しかし、対イエスさまということについて、両者は手を結ぶことができました。地上の権威の一つであるヘロデ王とその支持者たちにとって、また、地上の宗教的権威に根ざすファリサイ派にとって、「神の国」から遣わされた本物の「神の子」は、自分たちのかりそめの権威を根底からひっくり返す可能性を秘めた、危険な存在でした。主イエスは、彼らを18節で「偽善者たち」と批判しました。なぜ、主イエスから見て「偽善者」なのでしょうか? 16節では、イエスさまに対して彼らは言います。「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」と口では言っています。これは確かにイエスさまの真実を言い当てています。主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)。「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハネ14:10)と。
イエスさまは、だれをもはばかりません。はばかる必要がありません。創造主なる神の独り子であり、「神の国」の王だからです。地上のもろもろの王さまたちの気持ちを「そんたく」する必要がありません。主イエスは王も庶民も分け隔てなさいません。神から見て「上級国民」などありません。誰もが「汚れた唇の民の中に住む者」(イザヤ6:5)であって、神からの清めを必要とする者たちです。また、神から見れば、「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」(詩編103:15₋16)のです。イエスさまの神の国に希望を置く人だけが、虚しさ地獄から救い出されます。17節でファリサイ派の弟子とヘロデ派の人々は、ついに本心を表わしました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この質問は罠でした。イエスさまが「適っている」と答えたならば、この男は律法違反の不信仰者であると告発することができました。「適っていない」と答えたならば、目の前のヘロデ派は、皇帝に反逆したとイエス様を告発することができました。主イエスを「反逆罪」で告発することが、彼らの共通の狙いでした。そこで「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』」(22:18-19)
わざわざデナリオン銀貨を取りに帰って戻って来た彼らに、「イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。」(22:20₋21) 「すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(22:21) 原文では「カイサルのものはカイサルに与えよ、神のものは神に(与えよ)」となっています。ファリサイ派は普段の暮らしではローマの通貨を使って、利益を得て来ました。ですから、税金を拒むのは筋違いとなります。カイサルによるものは、カイサルに返せば(与えれば)よいのです。では、「神のものは神に返しなさい」とは何を指しているのでしょうか?・・・単純には、毎年過越祭りまでにユダヤ民族がエルサレム神殿に捧げる神殿税が考えられます。イスラエルの成人一人につきユダヤ貨幣の1/2「シェケル」=「2ドラクメ」が課せられていたからです。では、主イエスは21節で<神殿税は神に奉げなさい>とだけ言ったのでしょう?おそらくそうではありません。「神のもの」とは何でしょうか?…時は、過越祭の近く。つまり、主イエスが十字架につけられる時が迫っていました。「神のもの」とは、神の独り子イエス・キリストであり、主イエスの弟子たちです。
つまり、主イエスがここで示されたことは何だったのでしょうか?当時のイスラエルの一方の極地は、「ガリラヤのユダ」の態度でした。ユダは、皇帝への納税という市民としての課題を自分の信仰告白と結びつけて拒否し、暴動を起こしました。主イエスは、その有り様を否定されました。その背景にあったのは、この世の制度は「神の国」にまで及ばないという考えではなかったでしょうか?宗教改革者ルターは言いました。「人間の制度は天や魂にまでは及びえないのであって、人間が見たり、知ったり、さばいたり、判断したり、罰したり、推測したりしうる、地上での、人間相互間の外敵な生活のみに及ぶのである。」(※) 主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉で、地上の王などの社会的権威が帯びている<ある意義>を認めつつ、その限界も主張されたのです。世の権威の主権は相対的であり、移りゆくものです。しかし、「神の主権」は絶対的であり、時が来ても移ろいません。
キリスト・イエスは「神のもの」であって、十字架の後復活を経て神に返されました。『ハイデルベルク信仰問答』の「問い1」に「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」とあります。その答えは、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」(※2) 私たちはキリストのもの(神のもの)です。神に返されるべき存在です。
地上にあるすべては創造主なる神のものではないでしょうか?実は、「皇帝」のものなど地上に存在しないのです。私のものなど地上に存在しないのです。すべて地上に置いていかなければならないことがその証拠です。でも、唯一の慰めが私たちにはあります。私という人間が、すべての「罪」を十字架で引き取られたキリストのものであることです。私は、「神のもの」「キリストのもの」とされたのです。神のものである私自身を神にお返しいたしましょう。
(祈祷)
いつくしみふかい神さま、御独り子の十字架により、我らの罪を引き受けてくださり、感謝いたします。私たちを「神のもの」「キリストのもの」としてくださった大きな恵みに感謝いたします。地上のものは地上にお返しします。神のものである私自身を、慈愛の神よ、あなたにお捧げいたします。地上での残りの日々、私を御栄光の器として用いてください。尊い贖い主の御名をによって御前に捧げます。アーメン。
(※1)「この世の権威について」、『ルター著作集』、第一集5、聖文舎、p.173
(※2)吉田隆訳、『ハイデルベルク信仰問答』、新教出版社、p.9